いきなりだが、お寺とカフェについて考えてみよう。
コンビニよりも多いと言われるお寺。
けれどもその数に反して、お寺は多くの現代人にとって、気軽に行けるコンビニより馴染みがない場所だ。
その実、悲しいかなお寺の数は年々減ってきている。
必要とされていた時代があったけれど、今は様子が変わってきているということだろう。
一方で街にあふれるカフェ。
チェーン店から個人経営まで。
かぐわしい香りとおしゃれな雰囲気は人々を惹きつけられる。
実際にカフェは都市や田舎に関係なく、入りやすく人が集まる場が自然とできている。
このカフェというものは現在進行形で、街の人に受け入れられているのではないだろうか?
受け入れられている要素として、「楽しさ」があげられる。
楽しくないと人は集まらないからだ。
では、その楽しさとはなんだろう?
カフェを楽しむとはどういうことになるだろうか?
ちょっと考えてみよう。
カフェを楽しむとは?
カフェと言えば、コーヒーだ。
「カフェ=コーヒーを飲むところ」であるならば、このコーヒーを味わいつくすことがカフェを楽しむということになる。
コーヒーを目の前にし、その黒い汁をまじまじと見つめ、香りをかぐ。そして、おもむろに口に含み、舌でその苦みとコクの奥深さを味わう。
そして、その価値に満足して、お金を払って帰る。まあ、カフェに来てそれだけをして帰るのは、これからコーヒーショップを開業しようとして研究している者か、よほどのコーヒー好きだろう。
それもカフェの楽しみの一つだが、カフェを楽しむという全体を表しているわけではない。
これはカフェを楽しむというより、コーヒーを楽しむということになるだろう。
もちろん、カフェなのだから、コーヒーを楽しんだっていい。
ぼくが言いたいのは、カフェの楽しみ方はそれだけではない、ということだ。
想像の中のコーヒーショップ
ちょっと、イメージの中のコーヒーショップに場面を移してみよう。
店に入り、カウンターでお気に入りのコーヒーを注文し、席に着く。
少し周りを見渡してみると、老いも若きもコーヒーショップにつどっていることがわかる。
窓のそばには、友人と笑顔で会話している若い女の子たち、はじけるような笑い声が若さを物語る。
その横にはパソコンを広げて仕事をしているスーツ姿の男性。なんだか、いそがしそうだ。
近くの席に目をやると本を読んでいる眼鏡女子。家に帰るまで待ちきれなかったのだろう。真新しい「〇〇書店」と書かれた紙袋がテーブルの上に口を開けて置かれている。
奥の席には恋人同士だろうか、コーヒーもそこそこに、手をつないじゃったりなんかして、まーまーまー。コーヒーが冷めるどころか、熱々ですね。
そんな中で、ブログを書いているカジュアル姿のお坊さん一人。これは、ぼくだ。
まあ、この描写は現実半分、妄想半分なんだけど…。
つまるところ、カフェという場所では、人々は様々な過ごし方をすると言える。
カフェを楽しむとは?結論
では、カフェを楽しむとは、いったい何なのだろうか?
それは、思うに「カフェという空間でそれぞれの時間を楽しむこと。」それがカフェを楽しむということなのではないだろうか?
カフェではこうでなくてはならない、という過ごし方はない。
思い思いの過ごし方をしていいし、それこそ、コーヒーを研究するようにじっくり味わってもいい。
もちろん、そのベースには居心地のいい空間や、おいしいコーヒーがあることが前提だ。
その空間では人は自由だ。
人々はそこに価値を見出しているのだ。
でも、実は自由といっても人は「カフェ」という空間のルールの中で楽しんでいる。
カフェをカフェたらしめる要素とでも言おうか。その中で人は楽しんでいるのだ。
だから、何をしてもいいというわけではないが、縛られている感じもしない。
人はルールや空間にある程度の広さがあれば、自由と感じるのかもしれない。
ぼくは思う。
お寺もそんな自由な空間であって欲しいと。
むしろ、そんなお寺こそがこれから必要とされているのではないかと思う。
「お寺って楽しい。」というような声が聞こえてくる、そんなお寺が増えていけば、きっと未来は明るくなる。
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